「ただ、それだけのこと。」


つぶれたトマトがそこにあるみたいに、

何かが横たわっていた。

目を見張るとそれが、

もともとは自分と同じ姿だったんだとわかった。


とびちった赤い果汁。

実をぶちまけて。


ぼんやり眺めていても

不思議と恐怖はわかない。

あるのは、静か過ぎるほどの空間と、

冷たいほど冷静な感情。


やがて眺めていた僕の後ろで、

耳をつんざくような高い悲鳴があがった。

それこそ、耳障りなほどの悲鳴だった。


パトカーがうわんうわんと集まってくるころには、

あっというまに人だかりができあがっていた。

気味悪がって、トマトの周りは切り取られたみたいに誰もいない。

僕は最前列でやっぱりそれを見ていた。


やがてテープが張られて、

僕らは遠くへ遠くへと押しやられた。

たくさんのブルーの服がそれをかこみ始めて、

道路に線を引いたりAとかBっていう札を立てたりしている。


少し離れたところで警察と話をしていた太ったおばさんが、

僕を指差していた。

がまがえるみたいなおばさんだった。

どうやら、あの人が耳障りな悲鳴の元らしいとわかる。


警察は僕のところへ来ると、

いくつか質問をしてきた。

落ちてくるのを見たのか。

誰かいなかったか。

君は何をしていたのか。

淡々と短く答えた僕をいたわるように見つめて、

また話を聞くことになるかもしれない、ショックだったろうねと、

名前と住所を聞いて戻っていった。


それだけ僕が放心状態にでも見えたんだろう。


やがてどういうわけかマスコミも駆けつけてきた。

いったいどうやって情報を聞きつけるのか。

うるさい蟲がたかるように数を増す。

また、さっきのがまがえるが話を聞かれていた。

目立つことが好きなのかもしれなかった。

その醜い姿を晒すのに抵抗はないんだろうか。


そのころにはトマトは運ばれていて、そこには線と酸化して赤黒くなった血が

べったりと残ってるだけだったけど、

離れすぎてそれもよく見えなくなっていた。


運ばれたのは、トマトは、

女の子だった。

女の子だったものだった。

変な方向に曲がった腕と足。

顔なんか半分はぐしゃりとゆがんで、

髪の毛は血で濡れて残った顔も隠していたのを覚えている。

とびちった中身と一緒にバックの中身もちらばっていて、

それも回収されたみたいだった。


僕はそれでも、女の子のいた場所を見ていた。

ずっと、見ていた。

無表情のそれが見えていたから。

たたずむ、それが見えていたから。

話はできないのはわかっている。

でも、それが見る方向にたたずむ巨大なマンションと、

その無表情の眼がねめつける場所にある管理人室が僕には見て取れた。


彼女はかわいらしい顔立ちだった。

すっと細くて小さな顔に、茶色い髪がかかってとても明るそうだった。

だけど、その表情はもう色を失って、

マネキンのようだ。


でも僕は知っている。

彼女はマネキンなどではない。

彼女がこのあとどうなるのかも、

僕は知っている。


彼女は、やがてゆっくりと歩みはじめた。

重い足取りで、ゆっくりと、

じっとりと、

歩んでいく。


音はない。

空気も動いていないだろう。

手はだらんとたれたままで、

それでもやっぱり表情はないままで。


僕は知っている。

彼女は連れにいくのだ。

自分の命を絶ったものを。

僕にできることは何も無い。

ただ、見てること以外は。



彼女はそれを連れるとき、

狂ったように笑うのだ。

裂けんばかりに口の端をつりあげて、

眼を見開いて。

色を失った彼女の表情に、

最後にともる色がそれだ。

狂喜の色。

狂喜。


彼女のかわいらしい表情を見れるのは、

ゲンジツのシャシンくらいだろう。


死した魂は、

ごくまれに、本当にまれに、

狂喜に震える。


自分の命を絶ったものに、

最高の恐怖と最高の苦痛を手渡すときの、

狂喜に震えるのだ。



その姿を、僕は見ることができる。

ただ、それだけのこと。